「これ」は便利である。なんでもこれと呼べる。それが代名詞ならば「それ」とか「あれ」と言い換えてもよい。そんな「これ」は個体とよぶ。
ところがどうしても「これ」と呼べないものが一つある。逆に「これ」としか呼べないものも一つだけある。他人の経験は「これ」と呼べないし、自分の経験は「これ」としか呼べない。
代名詞ではない「これ」が指すのは、それが指すなにかではなく、意識が浮かぶその経験である。浮かぶその経験が「これ」であり、自分自身に他ならない。その瞬間に、そしてその瞬間にのみ、自分と世界と生命が一点で交叉する。
意識は勝手に浮かぶので、誰も制御できない。一方、「これ」が浮かべば、それを分割できないので1と数えられる。だから誰もが1とは何か知っている。しかしなぜ知っているのか誰も知らない。説明 しようとすると、自分や世界や生命に分解してしまい「これ」ではなくなる。従って「これ」としか言えず、言語で記述できない。この点で情報を伴う個体と異なる。
純粋経験から出発して場の論理を展開し、そこから場の自己限定という独特な思考を以って様々な現象を理解しようとしたのは西田幾多郎であった。西田哲学と呼ばれるこの独特な試行を念頭に置いて20世紀後半の物理学や数学の目魔狂しい進展を見ると、ほゞ同じことを述べていることが分かる。
とりわけ物理学の基礎となる量子場の理論に於いて、更に分割できない素粒子が量子場から確率的に生成し消滅する過程が、あらゆるミクロな現象を説明し、場の階層構造を定めるという意味で、「これ」が指す意識経験を純粋経験とよべば、その上に場の論理を展開する西田哲学に丁度重なる。
そこでこれら独立した思考の流れを共通のキーワードで記述し、本来意図した意味からの多少の変更 を許容しつつ、可能な限り単純な論理に統一して見ることは、どこまでそれが可能か興味あるところで ある。
残念ながら量子場の理論の背景にあると思われる論理はまだ知られていない。しかし、物理現象と意識現象とは情報を介して双対的に繋がることから、寧ろ場の自己限定という新しい考え方を組み込むことによって、量子場がどんな論理に従うべきかが明らかになると期待される。
ははは